英 語 が 話 せ る 飲 食 人 に な ろ う !

はじめて外国人に英語で話かけたのは中学3年生でした

バイリンガル・ウェイトレスの酒米子(さかまいこ)です。
お酒が大好きで、ソムリエと利き酒師の資格をもっていて、新潟の米農家出身なので、このペンネームにしました。

生まれはヒカキンさんの故郷の隣町。新潟の片田舎の米農家の長女として生まれました。
2005年の市町村合併により、市になりましたが、私の生まれ育った地域は6000人の村でした。外国人なんて見かけることもありません。今でも生活物資や仕事などは、隣町まで行く必要があり、最寄り駅まで車で30分。過疎化がすすみ、利用者がいないため、ここ数年前には町までの路線バスがなくなってしまったほどの田舎です。

小学校の6年生の終わりに、「つくば博」が開催され、勝田に住んでいた叔母家族と一緒に行きました。その時が初めて外国人や異国に接する経験でした。スイスパビリオンの前に金髪の素敵なコンパニオンの女性が立っていたので、父がその女性に許可をとってくれ一緒に写真を撮ってもらいました。私が英語に興味をもつようになったのは、父の影響だと思っていたのですが、今思えば、恐らくこの「つくば博」に行ったことも外国や英語に興味をもつきっかけだったように思います。

この時は、ただ外国の方を生で「見た」だけでした。英語に興味を持った私は、中学生に上がったと同時に、父の勧めでNHKラジオの「基礎英語」を聴くようになりました。その後「続・基礎英語」「上級基礎英語」など、レベルを上げて聞き続け、実はその習慣は50歳になった今でも続いています。

さて、中学3年生でいよいよ、初めて英語を発するチャンスがありました。修学旅行先で浄瑠璃を観たのですが、その時隣に座っていた外国人夫婦の奥さんの方に、

Where are you from?

と聞いたと思います。。。緊張しすぎて、それから何を話したのかまったく覚えていませんが、とても親切で、最後は一緒に写真を撮ってもらいました。

とにかくティーンエージャーの頃からずっと英語が話せるようになりたかった。中学生の時は、英語の試験はいつも満点でしたが、高校に上がると、レベルについていけず、赤点になることもしばしば。しかし、英語が好きということが先生にも伝わっていたようで、ある日お昼休み中に、校内放送で英語の先生から、「1年〇組の酒米子。今から至急図書館に来るように」と呼び出されました。何故呼び出されているのかも見当がつかないまま、どきどきしながら図書館へ行くと、、、そこには10人ほどの外国人がいました。先生が「新潟県中のAET(Assistant English Teacher)が集まってるんだ。良い機会だからお喋りしなさい」と言って去っていきました。それはとても驚きでした。何故ならその先生は、高校1年の初の英語のテストの答案用紙を返す際に、赤点の者に答案用紙で頭を叩く先生で、ついその何日か前に叩かれたばっかりだったのです。

外国人の中に一人ぽつんと入れられた私は、全く何もしゃべれず、またAET同士で盛り上がっていて、まったく会話に入れてもらえず、ただそこでじっと座っているだけでした。でも凄く嬉しかったし、一言もしゃべれなかったのに、なんだか自信がつきました。何故なら、おそらく1000人はいる全校生徒の中でたった私独りが呼び出され、外国人の中に放り込まれたのです。先生の本当の意図は分かりませんが、今思うと英語を勉強するためのモチベーションを上げようとしてくれたんだと思います。この時のことを思うと、涙が出そうになりますね。

その後、私の英語の成績が激変したかと言えば、まったくそういう事はなく、むしろ苦戦し続けた記憶しかありませんが、高校2年生の時に、クラスにニュージーランド人の留学生が1年間やってきました。とにかく仲良くなれるように一生懸命だったのを覚えてます。

私も留学したいと思うようになりました。高校3年生の時、新潟県から1名だけ3か月間の奨学金留学生を募集していたのでもちろん飛びつきました。応募方法は、何か論文を書いて提出するだけだったと思うのですが、父と辞書をめくりながら一生懸命書きましたが、受かりませんでした。

大学2年生の時に、翌年からの交換留学制度ができ、学科ごとに1名の奨学生の募集が始まりました。私は法学部政治学科だったのですが、政治学科で応募したのはたった5名。大学入学後、英語の部活、ESS(English Speaking Society)に所属していたので、教授との英語の面接ではだいぶ受け答えが出来ましたが、教授に「君はまだ来年もチャンスがある。今回は1年先輩に行かせてやるので、来年までにTOEFL500点をとっておきなさい」と言われ、1年目は不合格となりました。翌年のある日。教授は直接「TOEFLの方はどうだ?今年は行かせてやるから応募しなさい」と言われました。実は彼氏ができてしまい、TOEFLも450点止まり。500点取れないし、留学はいいかな~と思っていたのですが、先生がそれでも「応募しなさい」と言ってくれ、またのないチャンスと思い応募しました。

1995年5月。サリン事件が東京を震撼させてまもなく、私は初めての海外、アメリカカリフォルニア州のサンディエゴに降り立ちました。22歳でした。

つづく…

当時はカセットテープやMD(ミニディスク)に録音して繰り返し聞いていましたが、10年ほど前には radikoというサイトでmp3 で録音できるようになり、それをiPhoneのiTuneに入れて聞いていましたが、現在ではずっと便利になり、スマフォの「NKHゴガク」というアプリで1週間聞き放題になりました。

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